(41)「宗教」とは

水曜日のダウンタウン」という番組で、「社長がバンザイをやめない限り、部下もやめられない?」という説の回があった。あるOA機器販売会社の会議室で、社長さんが社員さんたちを前に販売台数の実績アップを称えて万歳し続けたら、社員さんたちは嘘の万歳にどれくらい付き合い続けるかの検証である。

結果は、実に480唱15分以上続いた。番組と一緒になり仕掛ける側の社長さんが疲れてしまい仕方なくやめるまで、中には怪訝そうな表情になった社員さんもいたし、だんだん最初のような元気はなくなり疲れて腕が上がらなくなっていったが、けなげにも社員さんたちは万歳に付き合ったのである。社長さんが疲れなければどうなっていただろう。それを思うとゾッとした。

見方によっては、社長さんと社員さんの間に厚い信頼関係があるのか、それとも社長さんがよほど怖いのかなとか、筆者もコンピュータの販売会社でノルマのある営業をしていた身だから、自分だったらどうしただろうと思いながら、いくら何でも15分以上も付き合うなんて社員さんたちの従順さを異常だなあと感じたのである。

これに対して番組が比較対比した検証は、お笑い芸人の次長課長の河本さんを囲んだ10人程度の集まりでその最年長の先輩芸人、次長課長の河本さんが何かの祝い事を理由に万歳をし続けようと仕掛けたら、万歳の4唱目か5唱目には後輩芸人の表情が一斉に変わり、ニューヨークの屋敷さんから「もういいでしょう」と突っ込みを食らってすぐ終わってしまう。先のOA機器販売会社の例とは条件的にはかなり違うとは思うが、それにしても先輩芸人の異常さを敏感に違和感として感じとれる後輩芸人たちがいかにも正常で頼もしく思えたのである。

会社の社長さんだから異常なはずがないという思い込みが働いたのではないかとか、強者に対する弱者の立場上の忖度が働くことの検証になったのではないだろうか。言い換えれば、人は常にまともでいられるのか、ということを突き付けられる思いがして、人のまともさなんてあてにはならないと感じさせられた。

 

筆者は66歳を過ぎた今日まで、新興宗教を信仰する母を反面教師として生きてきた。新興宗教に対する言わばトラウマを抱えた人生だったと思う。端的に新興宗教が嫌いである。何であんなものをまともに信じられるのだろうと不思議にさえ感じる。だからこの世から新興宗教が消えて無くなっても何ひとつ変わらなくまともに生きていける自信がある。反って極端すぎるというお叱りを受けるかもしれないが、筆者は自分の葬式を出してもらうつもりも、お坊さんに戒名を付けてもらうつもりも、墓に入るつもりも、一切無い。死んだら許される範囲で即、火葬場で骨にしてもらい、許されるなら骨を拾ってもらわなくても構わない。もしそれが許されないのなら、骨の状態だと砕くのに手間がかかるから最初から粉の部分だけ少しすくって容器に入れてもらい、迷惑にならず法に触れないような簡便な方法で海に散骨してもらうことを周りの者にはお願いしている。

宗教がからんだような迷信めいたシキタリに沿うこと一切が何となく無駄なことのようで受け入れられないのである。それらはおそらく、創価学会信者の母を悪い見本として生きてきた影響が大きいと思う。

 

だからと言って、純粋に新興宗教にすがる人や、新興宗教を心のよりどころとする人がいても不思議ではない世の中であること、そのことも何となく分かるような気もする。

何故かというと、それは、母が単に身内だからという訳ではなく、母を客観視した場合、母が何かにすがりたい気になるのも無理はなかったのではないか、何かを拠り所にしたくなるのも無理はない境遇だったのではないかと思うのである。

そんな母の境遇を分かっていても、母がなぜ創価学会に入信したのかその経緯について、これまで母に直接聞きたいと思ったことは一度もない。筆者にとって母が創価学会に入信していることを他人に知られるのが恥ずかしいことであり、母のこととは言え、母とその点について直に話すこと自体、頼まれてもむしろ拒否したい事柄なのである。

 

母がなぜ入信したのかは、母の生い立ちの事実を追うだけで充分であろう。母は6人姉妹の長女で10歳の時に終戦、高校には行けず働きに出ている。戦後の混乱期に20歳で結婚し3人の男の子を育てていく中で4人目の出産の前後に創価学会に入信したと思われる。どうだろうか。この母の入信という選択を間違いだと完全に否定できようか。

林芙美子著「浮雲」の後編だったと思うが、戦後のどさくさに新興宗教が乱立し、心から救いを求めて信者になる側と、それをカモにして金儲けする側が描かれているが、まさに母はカモになる側だったのである。

終戦後の混乱の中で家計はいつもカツカツで父からの蔑んだ暴言や暴力を浴び続けた母は不安でならなかっただろう。母にとり創価学会はすがることができそうな、心の拠り所となりそうなものであったに違いない。

その母の入信を恥じて、ことあるごとに暴言や暴力で脱会するよう説き伏せようとする父。それを頑なに聞き入れず耐え続けることを宗教的な苦行と捉える母は、増々信心深くなっていった。そのはざまで年端も行かない筆者ではあったけれど、父の考えが正しいような気がした。でも、父の母への暴言や暴力を振るうシーンに対しては受け入れ難い本能的な恐怖感や嫌悪感を覚えた。小学校低学年の頃の病弱な筆者にとり、まだまだ母の優しさに甘えたい盛りの頃であり、それがまた、嫌でも母の言うことを聴かざるを得ない弱みにもなった。母からはこれをすると幸せになるみたいな、子供でも分かるような受け入れ難い迷信めいた理屈で、無理やり長時間正座しながらの、南無妙法蓮華経を唱える勤行を強いられる日々だった。自分の意志を持ってもいない小学校低学年時から、訳の分からない宗教を強制され、経済的、肉体的、精神的、時間的無駄な苦しみを味わわされ、トラウマとなっていったのである。母の純粋な善意だとは言え、今で言うなら虐待と言えるだろう。筆者は、この頃の母をまだ嫌いという訳ではなく哀れに感じていたのである。

 

当時の創価学会の頭のいい組織拡大を図ろうとする輩は、母のような信者の弱みに付け込んで、巧妙な詐欺の手口で信者が励みそうないかにも真っ当そうな教えを説き、創価学会に従順な信者になるように洗脳した上、競争心理であおりたて読みもしない池田とか言う会長の書いた高額な分厚い本が出版されるたびに同じ本を何冊も購入するように仕向け、聖教新聞公明新聞は十数部もとらせるように仕向け、また、入信者を増やすために信者に徒党を組ませて親類縁者や近隣への折伏入信活動を推し進めるように仕向けて、やがては公明党を野党から与党にし、さも創価学会員がこの国のかじ取りをしているかのような錯覚した狂信的高慢さをも信者に植え付けることに成功したのである。

父が病気で弱ってくると、父は創価学会で活動する母のことをとやかく言わなくなっていった。むしろ父の晩年には父は母にコントロールされているようだった。

母は選挙のたびに豹変し、子供たちやその嫁や孫や親戚や知人に公明党に投票してねとか、公明党の候補者に投票してねと他人の自由意志を逆なでし、自分たち創価学会員の信心が世の中を救っていると吹聴し、あからさまな恩着せがましい不遜な母になっていった。

自然とそんな嫌な人間性を現し始めた母とは距離を置くようになっていった。筆者を含めた子供たちはそれぞれ、何とか以前の謙虚で優しい母に戻って欲しい一心で、何度か創価学会を退会するように諭したが、洗脳は解けなかった。母がまともなのか、学会員でない者がまともなのかを言い争った後には、どうかもう周りを巻込まず、母ひとりの信仰にして欲しいという諦めに変わっていった。

それでも高齢の母の健康を思い5年ほど一緒にプールに通っていたが、耳が遠くなっても補聴器があるのに使いもせず会話にならなくなったことで迎えに行く時間調整ができ辛くなったことも手伝い、時を同じくして起きたコロナ禍を理由に唯一接点だったプールにも誘わなくなった。それまで少なくとも盆暮れには帰省していたが、その頃から帰省すらしたくなくなっていった。本音を言えば、母に嫌気がさしたのである。

 

公明党自民党の議員さんは、例えば労働団体や経済団体や農業団体からの支援を受けるのと同じように、創価学会や旧統一教会の信者を利用して票を集め自分の地位を保っているのに過ぎない、その何がいけないのと思っているのかもしれない。そこが安易な考えであることに本当に気付いていない議員さんもいただろうし、中には、本当は最初から分かっていて気付いていないふりをしてきて、信者の二世が大人になり社会問題になるまで放ったらかし、安きに流されてきた議員さんもいたはずである。だから、その結果として同朋の元総理大臣の死という痛ましい事件が起こる羽目になったのである。

 

これら全体の構図の中で一番意地汚いのは誰か。それが自民公明の議員さんたちであると気付かない人がいるだろうか。

筆者は新興宗教の類はすべてなくなって欲しいと思う。むろん解散請求命令どころか根絶を望むものである。そもそも法律の下の「信教の自由」の中に新興宗教を含めるのは間違いだと筆者は思う。

時代の一瞬のどさくさに紛れてポッと出の胡散臭い教団を「宗教」という括りにしていいはずがない。「宗教」とは、長い年月に渡り人の営みにおいて浄化淘汰されてそれでもなお認められ残っていくものである。

洋の東西を問わず昔から宗教の類の内部にはずる賢い輩がいて、信者の財産を取り上げ金儲けしたり、信者に破廉恥なことをしたり、監禁したり殺人までも働いてきた歴史があるではないか。そういう新興宗教の構図をうすうす分かってはいても知らないふりをして、自分の地位安泰に利用する安易な政治家が存在してしまうのである。

公明党自民党やその他の党も含めて、新興宗教団体からの支援を受けて当選し、その地位にいる政治家は、新興宗教によって家庭や人生を壊された人達を蔑ろにして来たのである。

自民公明の議員さんたちは、今日の闇バイトや、振り込め詐欺のような自分の手は汚さない黒幕と同じで、いや、それ以上に質の悪い存在であることに内心は気付いたはずだ。

 

もちろんそれと同時に国民は目が覚めた。詐欺まがいのことから逃れる知識や知恵を得て、宗教離れは進み、公明党所属の議員や旧統一教会とかかわりがあった国会議員には投票しないだろう。

岸田総理が次の選挙に打って出られなくなっている理由がここにある。もはやタイミングの問題ではない。