宗教を信仰する親による、その子供への虐待についての調査結果が、こども家庭庁から出たという記事を目にした。筆者は自分の子供の頃のことを思い出し、憤っている。
何故憤っているかと言えば、上記の調査をしておきながら、政治家は一方で、自分が議員を続けていくために宗教の信者を利用している実態が明らかとなっているし、その逆の宗教団体はというと、その宗教が真っ当であるかのように政治家を広告塔に利用しているからである。
「利用している」と現在形なのは、自民党と旧統一教会だけの問題ではなく、現在も与党である自民党および公明党と、創価学会の票集めの関係が公然の事実となっているからであるが、その関係は、創価学会員が与党に働きかけ政治をコントロールし、あたかも学会員が世の中を動かしているかのように学会員を洗脳し錯覚させ、それにより自分たちの活動が真っ当であるかのような印象を学会の内外に与えようとしているのである。
つまり、公明党や自民党の議員が宗教を利用しているから信者が洗脳され、弱い立場の子供が宗教に巻き込まれ虐待されているのである。政治と宗教の持ちつ持たれつの関係を保ちつつ、一方では、宗教信者の子供への虐待の実態があり、それを調査し何とかしようとしているのである。これこそ、矛盾の極みである。
何とかしようと改めるべきは、公明党と自民党が創価学会と決別することである。そうすれば、子供を虐待してまで妄信する信者はいなくなり、子供が巻き込まれることはなくなる。
与党である公明党や自民党との結びつきで、創価学会の信者は創価学会が至上であるかのような錯覚をしてしまう。それをまんまと票集めに利用している公明党や自民党の議員は許せない。
創価学会から洗脳された筆者の母は、小学低学年時の筆者に勤行や宗教活動への参加を無理強いした。それは虐待そのものだった。親不孝にされそうで歯向かう余地はなかった。本当に酷かった。公明党が与党となってからは、母のよがった考えは増長した。まるで世の中を動かしているのは自分であると言わんばかりの増長ぶりだった。母の考えは頑なで、母を除く他の家族は、一人だけ学会員の母と距離を置くしかなかった。父と母の関係も親子関係もいびつであった。
山田太一著「異人たちとの夏」の中に、「きれいに考えすぎている。親子なんてそんなものじゃない。」という記述が出てくる。
つまり、ほとんどの親子は、テレビドラマで描かれる親子みたいな、きれいなものではないのかもしれない、という思いが一般的だということだろうか。
テレビドラマなら感謝を伝える心持ちになる年齢でありタイミングであるはずなのに、施設と病院を何度も入退院している間際の母なのに、筆者は素直に母を見舞いに行けない。行く気になれない。会いたいと思えない。顔も見たくない。正直、お互いの老いさらばえた姿を見たくもなく見せたくもない。生きているうちにすべきと思うが、その孝行ができない。だからと言って後悔することはないと思う。誰かから咎められたとしてもである。
なぜなのか。コロナのせいだけではない。それは、母が創価学会員であったからである。あの宗教を心のよりどころにしか生きられない、暗く情けない人たちの中に、自分の母がどっぷりと浸かり切っていたことだけで、もう十分その理由になるのである。
公明党と自民党の議員は、子供の成長過程における虐待だけではなく、家庭崩壊をも招いたのである。
創価学会を利用する政治家さえ存在しなければ、ごく普通の優しい母であったはずである。