(33)洗脳の世の中

彼のしたことは犯罪ではあるけど、彼は彼なりに考えに考えた上で、仕方なしに、もう破れかぶれだったにせよ、結果的には、旧統一教会や政治家はもちろん、世の中の寝とぼけた人々に対して、鉄槌を打ち込めたのだ。彼の意図した通りかなり効き目があったのだと思う。

7月8日、元総理大臣の安倍さんが殺されたことで露呈した政治と宗教の問題で、テレビの報道の在り方が少しずつ変化してきた。事件は、政治家と宗教団体が深く関係した結果がもたらしたことであると、この筆者でもすぐ理解できたのに、事件直後のテレビの報道は、参院選前後ということもあり、また、突然で痛ましい事件だっただけに、政治家と宗教の問題についてまったく触れていないと言っていいほどだった。事件発生から2週間ほどたってようやく、旧統一教会と政治家の関係をポツポツと取り上げはじめた。いくらかでも保身になるようにと思ったか、故人の弟大臣をはじめ、かかわった政治家たちが申し合わせたように、堂々の記者会見をするまでに至った。自ら記者会見するということは、裏を返せば、そこに後ろめたさがあるからこそである。

テレビの報道内容については、まだまだ手ぬるいなあと思っていたが、事件後3週間になろうとしたあたりから、旧統一教会と関係があった政治家との対決姿勢を鮮明にしたテレビ番組が出はじめた。

 

しかし、筆者が言いたいのは、政治家と宗教の問題としては、創価学会公明党という長年モヤモヤとした一丁目一番地の大問題がある訳で、それを避けて旧統一教会のことだけを取り上げていては、つじつまが合わないだろうと言いたいのである。公明党の代表がだんまりを決め込んでいるのは、つまりは、彼の頭の中は矛盾だらけであり、彼は何も話すことができないのである。大物政治家が殺されるという重大事件が起き、ついに自分たちにも追及の矛先が向く決定的な事態だと分かってはいても、言訳できないのである。ついに、にっちもさっちも行かなくなった心情が手に取るように判るのである。話題を逸らそうとしてか、(あの人が)発言するまでもないことなのに、敢えてコロナの問題を偉そうに発言するのは滑稽ですらある。

創価学会公明党の問題については、公明党の代表らがこれから先、何と発言するのかがトリガーとなってくると思う。正しく報道されることを期待するのだが、テレビの正義感の強いMCやキャスターやコメンテーターは、核心に触れ本音をすべて吐き出して言いたいのかもしれない。事件が起きたことで派生して来たこのチャンスを逃して欲しくはない。

今回の旧統一教会と、自民党などの政治家との関係に深いメスを入れれば、創価学会公明党を筆頭にその他の宗教団体と政治家の関係全体、いわゆる政教分離の原則論に及ぶことだから、テレビの報道もタブー視せず深く切り込んで欲しいのだ。

しかし、もしかしたら報道する側のスタッフにもすでに旧統一教会創価学会をはじめいろんな新興宗教の信者が深く入り込んでいるのでは、と心配している。事実、宗教団体から送り込まれた信者が政治家の秘書として多数働いていると聞く。

そうなると、どうもそんな気がしてならないのだが、警察や各省庁や新聞社やテレビ局や病院や銀行や市役所とかの中にも、創価学会や旧統一教会の信者が入り込み、組織的に活動しているのではないだろうか。近所の誰それさんが、創価学会や旧統一教会の組織の人だったりする可能性があるから(中国共産党のお役人みたいな人達が見はっているのではと)滅多なことは実名で発言できない。これが、これら悪徳新興宗教団体を潰せない最大の原因だと思う。本当に厄介な問題である。

 

岸田総理が9月27日に国葬実施すると決めたのだからもう後には引けないだろうが、国葬とするのであれば当日、国民はこぞって喪に服さなければならないのか、服装についてとか、黙とうとか、何か儀礼的なことを強要されるのだろうか。故人が国葬に値するかどうかは、9月27日当日の国民一人一人の行動がその答えなのだろう。国葬に反対する意見が少なからず出ている時点でもう既に答えは出ていると思うし、もともと哀悼の意とは、国民一人一人が、心の底からそう思えるかどうかだから一部の政治家が強引に勝手に決めるべきものではない。黙っていても、故人を偲び悼む気持ちが自然に湧き上がってきて誰言うともなく各所でその行動が出始めて、やはりそうかとして、やることだと思う。故人を筆頭に政治家の安直さというマイナスの部分から世間の目を逸らそうとして、故人を過度に美化し祀り上げ国葬すると決めた当事者たちは、愚かな判断であったと歴史的な責めを負うことになるだろう。

 

このように、筆者は山上という人に同情し、事件をきっかけに増々この国を憂いてしまうのだ。

このように、訳の分からない宗教団体が影響力を持ち、少なからず裏でこそこそ、この国を動かしているのだと怖がっているのだ。

 

ここで、選挙権があるのに選挙で投票しない人達に言いたい。やはり、この国の政治は間違っている。若い人たちがこれを変えるべきである。若い人たちが立候補して、若い人たちが選挙に行ってその若い人を選べばいいだけである。現役の政治家が政治に拘われなくすることだって出来るのである。そして、宗教と政治を完全に切り離す法律を作って欲しいし、もっと付け加えると、無駄な使われ方をしている税金を、しがらみのない、無駄のない使われ方にしていいのである。有権者のおよそ半分の人(たぶん若い人たち)が、その権利を放棄しているのは何とももったいない。棄権しているその半分の人が投票すれば、宗教がらみの政治家を一掃できるし、悪徳新興宗教を根絶できるはずだ。憲法には、正しく政教分離と明記してあるのだ。若い人達が、選挙で大ナタを振れるのだ。

 

 

筆者にしてみれば、上記4つは、しがらみにまみれたり、洗脳されて正気を失っている者として同類に見える。

つまり、これらの人は、弱みに付け込まれる側の人たちであり、かつ、それらの弱い立場の人を利用してしか生活できない人たちである。(例えば、中国のゼロコロナ政策で共産党のお役人が、個人の自宅の玄関の扉に釘を打ち付けている映像とか、共産党大会の会場で全員が半笑いでゆっくりとした拍子で拍手して、その組織の成り立ちが垣間見える映像とか、毛沢東の時代の告げ口で他人を貶める映像とか、それらを目にした時と同じ様に感じる)

国葬の日に、そんな人たちが見張っていて、喪に服さない者をリストアップして敵対視するのではあるまいか。そんなことを助長しかねない世の中になりつつあるのである。のめり込んで善悪のわからなくなった人は何をするか分からない。

 

この弱みに付け込まれる人と、弱みに付け込む人の宗教の構図は、いつの世も洋の東西を問わず存在するのではなかろうか。つい先日も、キリスト教皇がカナダの先住民に対して、100年越しに謝罪したように、赤毛のアンで描写されたように、先住民に対してキリスト教がした行為は、弱みに付け込まれる人と、弱みに付け込みそれを生業にする人の構図である。宗教が引き起こす問題は、人が人である以上、無くすることができないのかもしれない。

政治家が思慮浅はかに安直に新興宗教団体と繋がって広告塔になったことで、新たな狂信的な信者を産み、詐欺より悪質な悪徳商法や集金術を助長させ、ついには恨み骨髄の信者の息子が凶行に走ったのだ。そのことは明白な因果関係にあり、身内に信者を家族に持つ者にとっては、そうでない者には分からないこととして、より切実に理解できることなのである。

筆者も身内の信者を何とか新興宗教団体から抜け出させようと色々と試行錯誤し続けてきた。結果はもちろん、筆者や筆者以外の家族のメンバーが、どんなに理路整然と話しても無駄だった。筆者にとっては、身内が信者であることが世間にバレるのも恥ずかしいことであったし、決して他人に相談できることではなかった。世間的には内緒にして隠してしまいたい悩みだったのである。本当に人間の弱みに付け込んだ、かつ、人の心理を突いた巧妙なやり口である。弱者を食い物にする卑劣な新興宗教団体をのさばらしていい訳がない。詐欺より悪質なのだから新興宗教団体なんて無くていいはずである。