(14)李下に冠を正さず=疑われた時点でアウト

7月24日閉会中審査の答弁で安倍総理は、冒頭、「李下に冠を正さず」を引用した。その後の答弁や記者会見でも、安倍総理「李下に冠を正さず」を複数回口にした。もしかしたら安倍総理は、自身が既に「李下に冠を正してしまっている」ことに気付いていないのではないだろうか。いや、気付いていないはずはないから、気付いていない振りをしているのではないだろうか。

いずれにしても、もう十分疑念を持たれてしまっているのに、なぜこの諺を引用連発するのか違和感と白々しさを覚えてしまう「李下に冠を正さず」は、公務員は疑われた時点でアウトという意味だから、自分の疑いを晴らす弁解を始めてから「李下に冠を正さず」を口にするのは、まるで潔白であるかのようなニュアンスを漂わせているようで(誤魔化しの引用なので)、とても卑怯に感じる。

 

過去形として、安倍総理は、たわわに実る桃の木の下で、頭に被った帽子に手をかけて被り直してしまい、例え絶対桃に手を触れていなかったとしても、傍目には確実に果実泥棒に見られてしまったのである。立ち場上は、桃の木の下で帽子を触るどころか、桃の木の畑に立ち入ることすらやめるべきだったのだ。

 

もう少し言わせてもらえば、安倍総理は、みんなが見ている目の前で、立場をわきまえず無神経に傍若無人に平気で他人の所有する桃の木の畑に無断で立ち入り、その上、頭上の桃の実に届く位置の帽子に手をかけたのである。国民の目をはばからず、誰が見ても疑われる行為を自覚してか、無自覚かはわからないが、しれっとやってのけたのである。さんざん疑われることをしてきておきながら、今さら疑われることをしてはいけないという意味の「李下に冠を正さず」を多用するということは、今まで国民の目を気にしていなかったという総理自身の不遜さを自ら証明したことになるのではなかろうか。もとより、「李下に冠を正さず」という諺は、すでに疑われ批判される側にある安倍総理が使える諺ではない。

 

「李下に冠を正さず」の本旨からして、安倍総理と、加計理事長が友人である事実と、ここ数年会食やゴルフを重ねている事実、それだけでも怪しく疑いたくなるわけだから、特区だろうが岩盤規制に穴だろうが国策に加計氏が登場した時点でアウトである。一般国民からしたら、単純に不公平感と疑念が生じる。加計理事長が友人であるからこそ、安倍総理は、敢えて加計学園獣医学部新設を手放しで進めてはならない立場だったのである。総理が自身の保身に敏感なら、むしろ、逆に加計側に諦めてもらうべきだったと思う。どうしても進めなくてはならなかったのであれば、自分が総理を辞めてからにして欲しいと加計氏に友人としてお願いすべきだったと思う。閉会中にわざわざ審査するまでもなく、悪いのは安倍総理である。公務員としての自覚がなく、「李下に冠を正してしまった」のだから総理失格である。野党もマスコミもなぜそこを追求しないのか不思議だ。

加計氏から総理に働きかけがあったのか、安倍総理のご意向があったのか、役人側に忖度があったのか、真実がどうであったかを追求しても、それぞれの立場で保身や利害があるので答弁や見解に食い違いがあるのは当然で、国民が納得できる結果は期待できそうにない。言ったの言わなかっただの、怪文書呼ばわりだの、記憶がない、記録がないだの、今さら、時間と税金の無駄遣いだ。

重ねて言うなら、真実はどうであれ、安倍総理は、加計学園獣医学部新設が進められていくことに無神経というか鈍感だったのである。つまり、加計や森友の件に限らず普段から安倍総理自身に、その立場上、役人に忖度されることや、国民から疑念を持たれることをイメージする謙虚さや誠実さがなかったのである。事を成す上での脇が甘いとも言える。おそらく大勝した数の驕りで麻痺していたかもしれないし、多忙で気が回らなかったのもしれない。

前川前事務次官に対し、役人として公平性を欠くと気付いたなら、なぜその時点でその旨、文科大臣などに進言しなかったのかとの指摘があるが、それを言うなら、最初から公平性を欠いていることに気付くべきだったのは、安倍総理の取り巻きと総理自身である。

安倍総理は、第一次政権の頃からもそうだったが、不用意な発言が多い。一国の総理大臣の想像力の欠如から来る言わば、ほぼ無意識による不遜な言動に振り回されては国が持たない。加計の獣医学部新設にしても、白紙に戻すべきである。これだけ味噌が付いては、もはや開学しても学生が来ないだろうし、経営が成り立つとは思えない。その後のことは、加計も森友と同じように、文句があるなら直接、友人の安倍さんにどうぞ。悪趣味ながら、水戸黄門の悪代官と悪徳商人の結末を期待してしまう。